いそだ久美子 略歴
いそだ久美子
1966年 4月生まれ。神奈川県海老名市出身。旧姓は小室。
市立大谷小学校、市立大谷中学校卒業。
1985年 神奈川県立厚木高等学校卒業
1989年 早稲田大学第一文学部英文専修卒業
1989年 三菱電機株式会社入社。第一期事務系総合職。退職時主事。
2003年 セコム医療システム(株)に転職。同年結婚し長男出産。
2009年 同社を退職、民主党衆議院議員手塚仁雄事務所の秘書となり、国会事務所に勤務。
2010年 翌2011年4月予定・世田谷区議会議員選挙の民主党公認が決定。
2011年 4月世田谷区議会議員選挙 
定数50のところ55位(2581票)落選。
2012年 派遣社員として化粧品会社に勤務。
2015年 4月世田谷区議会議員選挙に再挑戦 
52位(3291票)また落選。
現在国家資格の受験勉強中。

B型・ひのえうま年・牡羊座

家族:会社員の夫と息子(区立小5年)
趣味:
読書=文芸書が主。『小さいおうち』(中島京子) 『沖で待つ』(絲山秋子) 林真理子作品など。
音楽・演劇=音楽はクラシックから二胡まで。アングラ演劇ファンで大学時代は下北沢通い。
映画=『ニューシネマ・パラダイス』『ジョイ・ラック・クラブ』など人間ドラマもの、ミニシアター系が好きです。
テレビドラマ=英国好きなので「ダウントン・アビー」(NHK総合/BBC)にはまっています。
その他 ガーデニング、骨董さがし、歴史的建造物を見て歩くこと。
誕生—中学時代
誕生—中学時代
—石を蹴れば土器だった。史跡を遊び場にした子供の頃ー

1966年4月、2人姉弟の長女として神奈川県海老名市に生まれる
。 両親とも旧KDDの研究員。2人が関わった衛星放送の試験放送が偶然ダラスのケネディ暗殺報道をキャッチした、通信業界の黎明期だった。

母は私の出産を機に、身体を冷やす大型コンピュータルームから退職、海老名に家を買って新しい生活が始まった。 相模原台地の上の新興住宅地(といっても昭和40年当時だ)から見下ろす田んぼの中に海老名駅があり、今住んでいる成城から国分寺崖線下、喜多見駅を臨む風景によく似ていた。 成城と違うところは、奈良時代に相模国分寺が置かれた古都だったことだ。

地元大谷小学校に進んでからは、「尼の泣き水」「海老名の大ケヤキ」など地域伝承に魅せられ、史跡めぐりの会を催したりした。
携帯電話もない時代に、小学生らが親しくなった市役所職員と休日の約束をして出歩くなど、今思えばのどかな時代だった。
もっとも、「尼の泣き水」はその数年前に国道246号線の建設で水源が絶たれ、石碑が残っているのみ。漁師が打った杭が根付いたという大ケヤキは、推定樹齢560年の今も健在である。

持ち前のリーダーシップを発揮して、小学校5年で児童会副会長、6年で会長に当選したが、その後選挙に出ることはなく、中学時代は締め付けるばかりの校則に反発して勉強ばかりしていた。
高校ー大学時代
高校ー大学時代
—バンカラ高校からワセジョに。体育会系な青春の日々—

進学した厚木高校は、明治時代創立の旧制第三中学(男子校)を前身に持ち、質実剛健を旨とする伝統校。
生徒会以上に応援団が全校生徒を仕切り、新1年生の教室を応援団員が回って「応援歌指導」を行う。
団員が拳で黒板を叩くと、次第に黒板が血糊で染まっていく…、もう全員直立不動です(笑) やるときはやる、遊ぶときは遊ぶで、伝統を守りながらも文化祭は思いっきり派手に。旧帝大、早慶などへの進学率は高かった。

最近は私学ばやりで「公立は建学の精神がないから」などと言われるが、果たしてそうだろうか? その言葉を聞くたびに、実行委員として日暮れまで文化祭の準備をしたり、石畳の中庭で応援歌の練習をしたりした高校時代を思い出す。

早稲田大学では英文科を専攻。 大学によってカラーは違うのだろうが、早稲田の英文学=シェークスピア演劇とも言える。 毎月毎月何かしらの演劇を観ては、レポート提出しなければならなかった。 新宿シアターサンモール、東京グローブ座、下北沢ザ・スズナリ・・・課題とはいえ、あちこちの劇場に足を運んで演劇を観まくり、仲間と演劇論を闘わす贅沢な日々だった。 下北沢でひときわ異彩を放っていた役者は、今テレビでも活躍している「生瀬勝久」。 大学で同じ授業をとり、いつもギターケースを携え、美形というだけでないオーラがあった「谷中くん」は、後年東京スカパラダイスオーケストラで世に出ている。 隣の学習院大では、礼宮(秋篠宮)カップルの婚約が内定。また昭和から平成に変わる節目の年でもあった。
就職
就職
——平成バブルとともに丸の内OLに。初めてのひとり暮らしは豪徳寺——

祖父と同じく新聞記者を希望したものの、最終的には当時女性総合職の採用を開始した電機メーカーに絞り、三菱電機の第1期事務系総合職として就職した。 AERAや日経ウーマンが創刊され、日本にも「女性も男並みに働き、昇進する時代」が訪れたかに見えた。

私も海外事業部門や医療事業部門に配属され、出張、残業、飲み会をいかに多くこなすかを男性と競い合い、なんとか主事(課長代理)に昇格。
気づけば30歳を過ぎていた。

独り立ちしなければと実家を出て居を構えたのが、小田急線で通勤途中にあった豪徳寺。
駅近くの高台にあるマンションの4階からは東京タワーやベイブリッジ、不忍池の法華クラブ、新宿のビル群までが一望できた。 あの風景は、今でも時々夢に出てくる。
育児
育児
—40歳を前にまさかの結婚、出産…キャリアライフに大激変—

三菱電機勤務15年目、転職のオファーを受けて契約書を交わしたその数日後、上司の紹介で見合いした相手が今の夫である。
昭和ドラマのような眼鏡をかけた、絵に描いたような財閥系銀行員。
相手が住む成城と豪徳寺とを行き来するうち話がまとまり、新婚生活は梅が丘、荷物も片づかないうち妊娠がわかる。
子供が生まれてくるなら、どこかに根を下ろさねばならない。
夫が独身時代によく歩いたという成城の西端、緑濃い不動坂の下に家を持った。

子供が出来てからは、これまでのように好きなだけ残業、必要あればすぐ出張というわけにはいかなくなった。
残念だが、15年以上積み上げたキャリアが、子供1人のために吹っ飛ぶこともある。
仕事でみるみる主軸から外されていく一方で、クローズアップされてきたのが地元の保育問題や、我が家も建設予定地にかかってしまった外環道路の問題であった。
地元の問題というのは、誰かが代表して声を集めていかないと何も変えられない。
保育の問題は、皆自分の子が大きくなったら忘れてしまう。気に入らなければ引っ越せばよいという考え方もあるだろう。
ならば自分が踏みとどまって、地域を住みやすくすることを今後の仕事にしていこうと、いつしか思うようになっていた。縁あって国会議員の秘書となってからも、地域の問題を相談されることが苦ではない。
photo こうして自分史を振り返ってみると、どうしてもなりたい職業とか、賞をとってやろうとか、理想の結婚相手とか、明確な目標を持って突き進んできたわけではない。
いろんな選択肢をその都度選んで、輝かしい実績はないが人並みの家庭を持ち、気づけば人生の折り返し点を過ぎていた。

今後は社会の担い手となる若い人たちが暮らしやすいように、自分は制度を整えるほうを担当したい。

それが政治という仕事ならば、素晴らしいことだと思う。



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